中川 裕貴 Yuki Nakagawa
Abstraction, self-title and Afterlife
日程:2019年10月7日(月)20:00 / 10月8日(火)20:00
作曲・演奏・演出:中川 裕貴 Yuki Nakagawa (Cello,Electronics,Some recordings)
会場:UrBANGUILD(京都)
主催・企画:中川裕貴
KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2019 フリンジ「オープンエントリー作品」
「Abstraction, self-title and Afterlife」メインビジュアル
日時
10月7日(月)20:00 / 10月8日(火)20:00
※各回30名限定(予約優先)
※limited to the first 30 / Priority for Reservations
会場
UrBANGUILD
イベント概要
行為と音の言方れ(おとずれ)、名前。そしてそれからのことについて。
行為と音の言(う)方へ向かう。
中川裕貴によるチェロ、電気・録音(拡声/複製/像)を用いた新作サウンドパフォーマンス公演をUrBANGUILDで開催します。
テーマは音/音楽の抽象性と行為の記名性、そして「そのあと(後・跡)」について。
演奏という行為と音に依ることでしか現れることの無い地点への"おとずれ"をいくつかの楽曲の演奏を通じて表現します。
「自分の手足/思考を使用し、モノや音の本来の”声”を聴く、聴こうとすること」を強く望む/臨む作者のことばとことばなき作品です。
作曲・演奏・演出:
中川 裕貴 Yuki Nakagawa (Cello,Electronics,Some recordings)
料金
adv.2000yen inc 1drink
door.2500yen inc 1drink
チケット/申し込み
ステートメント
音、そして音楽が「抽象的」であるということは、それらの持つ特性の一面だと思います(その抽象性を糸口に、標題音楽やピエール・シェフェールが提唱したミュージックコンクレート musique concreteという音楽が存在しているように)。しかしそういった抽象性を持つ対象=音、音楽の中にも「タイトル、輪郭、記名性(誰が何をしているのか)、また音を聴く際に現れるかもしれないイメージ(具体的な心情/演奏によって生まれる音が別の何かに聴こえる瞬間/音を伴う退屈な時間が別の思考を促す…等々)」が存在します。これは当たり前のことかもしれませんが、そういった意味で音の周りでは、抽象と具体的な事物/イメージが同時に存在しているように思います。またもっと言うならば、「捉えどころのない、対象となる像が見つからない、ことばにすることができない」という"抽象"と、前述の具体物のあいだで私たちは動き、時に立ち止まっていると…
そしてこの「往復」の中で、私は音の周縁に在るモノ/コトが音楽と関係すると同時に、またそれとは関係しない"捉えどころのない"時間/空間を指し示している可能性のことを考えています。
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シェフェールが述べていたのはいうまでもなくマチエール自体の持つ表現的可能性ではない。そうではなく異なる道具による別のアプローチによって、同じ物質(マチエール)あるいはそれに対峙する同じ主体がまったく異なるものとして出現してしまうという可能性であった。その意味で物質も人間=主体も固定した姿は持たない、アンフォルメルな観念に過ぎないのである。純粋な物質性も作者の内的自我も、「幽霊がどこかにいる」というテーゼと同じく…(以下略)]
※岡崎 乾二郎 - 抽象の力 (近代芸術の解析)より
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楽器という物質(マチエール)にとって私は道具であり、またその逆についてもいうことができる。その中では同じ主体も道具も異なるものとして出現し、主体・道具は固定されず、さっきまでここにあったものが今は遠くにある。
この不確定な作業から距離が生まれ、"私たち"は少し「直接的」でなくなる。
このように音を対象としたとき、私と道具や私とあなた、そして行為と「空間/時間」のあいだに、いつもどこかで「直接的でない」関係が在ることを思います(楽器の演奏とは物体への接触と理解していますが、それについても、「これは私の音」と本当に言えるのでしょうか。自分のモノがそうでないように感じる時間について)。また私が演奏し現実化させた音から現れるイメージが私とは直接的な関係がないことを想像します。
直接的な関係がないこと。それをここでは抽象性とします。
音そのもの、音からのイメージ、道具、そしてその周りの存在、関係性。その中に抽象性=直接的でない関係が在るとして、同時にそれには「名前」があり、その名前を持った後にも(イメージを得た後にも)、それと関係のない時間が存在すること。
今回はこれらのことにフォーカスを当て、それらを敢えていくつかの具体的な「楽曲」を通じかたちにすることで、音が元来抽象的であることと、それが名前をもつことのあいだで「行為」を行います。誰にでもわかるような「音」、誰にもわからないような「ことば」を用いて。
今ではなく、もう少し前の、あと少し先のことを、行為しながら考えること。
中川裕貴
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